磐梯神社の舟引き祭りと巫女舞
慧日寺の創建にも深く影響を与えた磐梯山は、かつて活発な火山活動がもたらした災禍(さいか)から「病脳山」(びょうのうさん)と称された。一方で万葉集には「会津嶺」(あいづね)と詠まれ、天空に聳(そび)えるその美しい山体はまさに天へと伸びる磐(いわ)の梯子「磐梯山」(いわはしさん)の名にふさわしい。また、古来神々の宿る霊山として篤(あつ)い信仰を集めていたことは、式内社に「磐椅(いわはし)神社」の名が見えることによっても知ることができる。このように、慧日寺は開基以来、磐梯山信仰を巧みに習合し、平安時代を通して大きく繁栄していったのである。
その山頂を東に望む山麓の磐梯町本寺地区には「磐梯神社」が鎮座している。もともとは慧日寺の鎮守であった地主神の「磐梯明神」を起源としており、明治初めに慧日寺が廃寺になった際に郷社として分離独立したという経緯をもつ。
この磐梯神社において、毎年春分の日の神社祭礼で行われる作占いの神事が「舟引き祭り」である。恵日寺に伝わる江戸時代の年中行事記録には、元来は毎年旧暦の2月中旬に国家安全と五穀豊穣を祈願する「御国祭」(みくにまつり)の中で行われていたことが記されており、廃寺に伴って磐梯神社へと引き継がれた。この神事は、両端に長い綱を結び三俵の米俵を積んだ舟型の台を東西に分かれた氏子衆が社殿前で引き合って、その勝敗によって作柄を占うものである。三回戦の勝負で、東が勝てば豊作、西が勝てば米の値段が上がるとされており、野良着をまとった引手が太鼓の合図とともに威勢よく引き合う姿は実に勇壮である。舟の前には、磐梯明神の面を被って幣束(へいそく)を持った神職が立ち判定を行うが、このように神が直接人前に姿を現し神託(しんたく)を下す例は民俗学上極めて稀であるという。
また、祭礼の冒頭には磐梯明神を迎えるため、神前で地元地区の女児が舞手となって「巫女舞」が奉納される。この巫女舞も同様にかつては恵日寺の年中行事であった「児之舞」(このまい)を起源とするとみられ、同じく廃寺後磐梯神社に継承されたものである。明治期に一時途絶えたが、約80年の時を経て昭和45年に復活した。現在は榊・弓・太刀を依代(よりしろ)とした三座が伝承されているが、以前はそのほかの舞もあったという。これら神社祭礼にまつわる一連の神事は平成17年に「磐梯神社の舟引き祭りと巫女舞」として県の重要無形民俗文化財に指定された。