摺上原古戦場空撮摺上原古戦場空撮

戦国時代末期の1589(天正17)年6月5日早朝、会津城主葦名(あしな)義広軍16,000騎と米沢城主伊達政宗軍23,000騎とが、磐梯山麓の摺上原(すりあげはら)で激突、東北の雄を決める戦いが行われた。当初、葦名軍の先陣・富田将監が、伊達軍の先陣・猪苗代盛国勢を破り、伊達軍の二陣原田勢、さらに三陣片倉勢を突き崩して政宗の本陣を目指した。この時、伊達軍の太郎丸掃部(かもん)が200人の足軽を指揮して将監勢に鉄砲を浴びせかけ、将監方に多くの犠牲者が出たが、将監はついに太郎丸を討ち取りなおも進撃を続けた。しかし、葦名軍の二陣佐瀬勢、三陣松本勢、五陣平田勢などは兵を進めなかったばかりか、戦見物の雑人たちが伊達軍に撃ち崩されたのを見て、味方の葦名軍が敗れたと思い、一度にどっと崩れて若松に向って退却を開始した。浮足立った葦名軍は日橋川まで後退したところ、あらかじめ伊達軍が廻り込んで橋を壊しておいたので、葦名軍は橋がないことに慌てふためき多数の兵が川に落ちて溺れ死んだ。これを機に葦名軍は総崩れとなり、葦名義広はわずか30騎ばかりとなった近習に守られ、黒川城に逃れた。摺上原の戦いに勝った政宗は、それから6日後に葦名家の居城・黒川城に入り、会津の領地を手に入れ、400年続いた名家葦名家は滅びた。しかし、政宗が会津に入ってからわずか1ヶ年過ぎた1590(天正18)年7月10日、豊臣秀吉の奥州仕置(※1)によって、政宗は会津を追われた。

※1 奥州仕置・・・豊臣秀吉が1590年に行った東北地方に対する領土支配のことで、多くの大名がその領地を変更させられた。

摺上原合戦図摺上原合戦図