優婆夷堂(うばいどう)には次のような縁起が伝えられている。「会津の東の関所・岩舘(いわたて)主の関参河守(せきみかわのかみ)が、中年になっても子がないので、夫婦そろって関脇の麓山(はやま)の神に“一子を何卒授けたまえ”と懸願した。願い叶って夫人は懐胎(かいたい)し、月満ちて出産に際し夫人は苦悶(くもん)した。このとき一人の老婆現れ、親切に助産した結果、夫人は無事男子を出産した。この礼を述べようとしたが、老婆の姿は霧の如く消え失せた。夫人はいたく感激し、“あれこそは優婆夷ならん”と枕辺でその婆神の面影を紙に描き、朝夕それを礼拝した。里人このことを聞き、これを信仰して霊験あらたかなると考え優婆夷堂に祭った。」

優婆夷堂では、今でも村人たちが子授けや安産の祈願をして、近隣近在の信仰をあつめている。堂内に安置されている如意輪観音は、猪苗代三十三観音(日本遺産認定会津の三十三観音のひとつ)の十一番札所になっている。

岩舘山にある麓は 山神社は、連なる山の端に鎮座する、いわゆる「はやまさま」と呼ばれている山岳信仰の社である。麓山神社は所伝によれば「大同年間磐梯山噴火により耕地が没し、猪苗代湖出現して湖底となった村に鎮座してあったのを、岩舘山に遷したのである。その後、関所開設の際、会津藩公の祈願所となる・・・」云々とある。湖底に沈んだとされる土地の村人が、福島県内や新潟県に移住したといわれており、その人たちの参拝が今でも続いている。

麓山神社の「はやままつり」を猪苗代地方では「火渡り」または「火つるぎ」あるいは古くは「火祭り」というふうに「はやままつり」を象徴していることや、他の神社の祭よりもしきたりが厳しいのは、修験道の影響が考えられるといわれている。