芦名氏の家臣である穴沢一族の五輪の塔と明治21年の磐梯山噴火の慰霊碑がある。
五輪塔はもともと江戸時代の桧原宿、崇徳寺境内の墓地にあったと伝えられる。
ところが1888(明治21)年7月15日、磐梯山で水蒸気爆発がおこり、周囲の集落は大きな被害を受ける。
477名の尊い人命を奪った稀にみる大規模自然災害は、土石流による堰き止め湖の形成を導き、桧原宿は現在の桧原湖底に没した。
その際、桧原宿の住民は、桧原地区や金山地区に移り、後の1923(大正12)年頃、渇水して姿を現した湖底から五輪塔を運び出し、現在地近くに置いたとされるのがこの五輪塔群である。
残されている五輪塔群は、地輪(下の四角い石)を見ると年号が「1633(寛永10)年」「1656(明暦2)年」などであり、江戸時代前期のものと知ることが出来る。
いずれも「逆修」(ぎゃくしゅ)と刻まれるが、「逆修」とは仏教用語で五輪塔に書かれる場合「自分の死後の仏事を、生存中にあらか(逆)じめ、修すること」であり、生前に墓石を準備したものと理解できる。
最も高さのある五輪塔の地輪には「□吟寿徳□」の戒名があり、戒名と年号を調査した郷土史家の方により、中世に蘆名氏により桧原の地を与えられ、蘆名氏没落後は隠棲し後、蒲生氏の会津入府に伴い桧原で知行を回復した穴沢氏一族に連なるものと理解された。
今日も、北塩原村郷土史研究会による標柱とともに湖底を望み、立ち続けている。