中の湯と鶴巻浄賢と関谷清景

1888年の噴火以前、磐梯山山頂の北側に湯治場があったことは、今ではあまり知られていない。現在、廃業した中の湯周辺に一つと、その南北に上の湯と下の湯が営業していた(図1)。 上の湯が海抜1,600m、中の湯が1,250m、下の湯が1,000m辺りにあり、開湯は上の湯が1648(正保5)年で、中の湯と下の湯が1872(明治5)年であった。

泉質と温度は、上の湯と中の湯が硫黄泉で約66度、下の湯が食塩泉で37度であった。

温泉の位置図(図1)温泉の位置図(The Eruption of Bandai-san 1889に加筆)

これらの温泉が開発されたことは『会津風土記』に記録がある。磐梯山には昔から温泉があることは知られていた。1645(正保3)年、落合村(現在の磐梯町)の肝煎鈴木四郎右衛門が温泉の開発を申し出て許可され、開発後には温泉司として任ぜられた。江戸時代、4月から9月の半年間で約3千人あまりが利用していたという記録も残っている。利用者の多くは地元や会津周辺からの客であったが、一部にはいわきや越後新津などからも来ていた。噴火直後に福島県では、この湯治場に県外からの温泉利用客がいなかったかを、全国の都道府県に問い合わせた。

県外からも多くの人が訪れる湯治場であった上の湯・下の湯は、1888年の噴火で壊滅し、生存者がいるのは、中の湯だけであった。3つの温泉での被災者は31名で、うち26名が死亡・行方不明であった。内訳は福島県人が12名で、新潟県人が14名。

新潟県の三条市から来ていた鶴巻浄賢という住職が、噴火の数日前から中の湯に宿泊していたが、九死に一生を得、噴火の体験記を残している。

「7月8日 当村の者と4名で磐梯山へ出発し、12日午後4時 磐梯山の中ノ湯に到着する。その時の入浴客は40名ほどいたが、翌日より少しずつ減っていった。
15日、7時半頃から大地震となり、驚いて小屋より飛び出した。10分ばかりたって、上ノ湯より100mほど上に、普通湯気の出る所から大砲3挺ほどが一度に発射されたほどの大きな音が聞こえ、黒い煙が一度に立昇り、山崩れの音はすさまじく、言葉では言い表せないほどで、瞬く間に黒い煙が空を覆い、大小の石が絶え間なく落ちてきて、私たちは思い思いに四方に逃げ出したが、数10m位で全員地面に伏せた。この時は何も見えず、まったくの暗闇となり、地震は止まらず、耳、目、鼻、口などに土砂が入り、声を出すことも吐き出すこともできず、生きた心地が少しもしなかった。その後1時間ほどたって、石が落ちてくることもおさまり、暗闇もようやく薄らぎ、おぼろ月夜位になった頃、逃げるのはこの時しかないと思い、急いで逃げ出すと、200mほど下る時に2番目の破裂があり、300mほど下る時に3番目の破裂があり、その時は土砂だけが体にかかり、噴石はなかった。」

この体験記は、2014年9月の御嶽山の噴火を彷彿させるものがある。どちらも水蒸気噴火(爆発)(※1)で、目の前で噴火が発生していることも同じである。

ところで、この廃墟と化した中の湯(写真1)に寝泊まりしながら磐梯山を調査した人たちが、帝国大学(現在の東京大学理学部)の関谷清景と菊地安らである。この磐梯山の調査をもとに英語の論文を発表したので、世界中に磐梯山の噴火が広まり、今でも磐梯山のスケッチを教科書に掲載している国もある。

磐梯山 中の湯(写真1)磐梯山中ノ湯(W.K.Burton撮影)

現在、中の湯は廃業しているが、今後磐梯山ジオパークの中心サイトとして、ぜひ再建してほしい。火山のめぐみである温泉は、磐梯山ジオパークの宝である。

※1 水蒸気噴火(爆発)・・・地下水がマグマにより熱せられて気化し、発生する噴火現象。以前は水蒸気爆発と言われた。