磐梯山噴火と長坂の悲劇

1888(明治21)年の噴火は、山そのものを崩す噴火だった(写真1,図1)。小磐梯が崩れ、岩なだれ(岩屑なだれ)により477人という多くの人が犠牲となった。猪苗代町で一番被害の大きかった地域がこの長坂集落。集落の西側で噴火が発生したので、住民の多くは東側の長瀬川方面に避難した。しかし、岩なだれは、磐梯山の北側に流れた後、長瀬川に入り泥流となって南に方向を変えた(図2)。その泥流に住民の半分以上が飲み込まれて命を落した(図2,写真2)。ところが住民の家屋は高台にあったため、ほとんどが壊れなかった。

ここ長坂にある殉難之精霊碑(じゅんなんのせいれいひ)は、明治の噴火による犠牲者を追悼するために、1925(大正14)年に建てられたものである。

長坂から南に2kmの渋谷では災害の原因が異なる。長瀬川に沿った泥流は渋谷まで到達しなかったが、噴火による爆風で多くの家屋が倒壊した(図2,写真3)。しかし死者はほとんどでていない。この2kmの距離が人間の生死を分けることとなった。

また、1889(明治22)年4月、長瀬川上流の小野川湖が決壊して大きな土石流が発生し、長坂の家屋に被害が出た。長瀬川流域では、1913(大正2)年まで洪水被害が続いた。火山は噴火した時だけでなく、その後も土石流やがけ崩れを起こし、周辺の地形を変え災害を引き起こすこととなった。

二つの地区の明暗を分けた火山災害のちがい