徳一(とくいつ)によって開かれた慧日寺は、会津の名峰磐梯山を東に望む山麓一帯に広く展開した山岳寺院である。縁起によれば、開基(かいき)は平安時代初期の807(大同2)年といい、以後明治初年の廃寺に至るまで、実に一千年以上の歴史を刻んだ。1809(文化6)年に完成した『新編会津風土記』には「徳一当寺に住せしより以来相続て寺門益繁栄し、子院も三千八百坊に及び、数里の間は堂塔軒を比し、甍(いらか)を並べ壮麗言計(そうれいいいはからい)なりしとぞ。されば会津四郡の地大方は寺領なりしに‥」と記されたように、当時最先端の思想や文化を請来(しょうらい)する拠点寺院として、会津地方の文化熟成に大きな影響を与えた。
長い歴史の中では盛衰も繰り返した。例えば、徳一の没後も発展を続けた慧日寺は、平安末には越後の城氏(じょうし)と関係を持つようになり、寺勢はいよいよ最盛期を迎える。しかし、城氏との関係から源平の争乱に巻き込まれ、一転寺は衰勢(すいせい)に向かう。室町期までには復興が進み、その頃の実景を描いたとされる「絹本著色恵日寺絵図」(けんぽんちゃくしょくえにちじえず)には、東国屈指の大伽藍(がらん)と共に門前には寺院都市とも呼ぶべきまち並みを見ることができる。その後、天正年間には伊達・葦名の戦いで罹災(りさい)し、多くの伽藍が焼失したといわれ、その後近世に至っても頻繁に火災の記録が残る。
歴代住持のたゆまぬ尽力の下、法灯を守り栄枯盛衰一千年余の星霜(せいそう)を経てきた慧日寺ではあったが、明治政府がとった神仏分離政策に伴う廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の波の前には、さしもの名刹(めいさつ)も耐え切れず、ついにその歴史を閉じることになる。廃寺後の慧日寺には、鎮守社であった磐梯明神が郷社として祀られ、一帯は磐梯神社境内へと変遷を遂げていった。かつての大伽藍を伝える礎石群も次第に草薮に埋もれ、寺宝もこの頃から徐々に散逸していったという。
戦後間もなくから学術的価値が注目されていた慧日寺跡は、その後文化財保存の機運が高まる中、昭和45年12月に約36,000㎡が国の史跡に指定される。昭和61年8月には、指定後の開発に伴って発見された関連遺跡の追加指定も行われ、現在総指定面積は約170,000㎡にも上っている。
指定後は貴重な歴史遺産の活用を目指し、町による史跡整備事業が進められている。南都出身の徳一が、教学研さんや布教の拠点としてこの地に創建した慧日寺。平成15年度から始まった史跡の本格的な整備にあたっては、その特徴を前面に出すため、慧日寺初期の遺構を対象とする方針が採られ、遺構の平面的な表示整備のみならず、建物の立体復元整備も行われている。とりわけ中心伽藍の南半部は、慧日寺跡の中で最も特徴的な遺構でもあるため、いわゆる金堂院を形成する部分(金堂・中門・石敷き広場)を立体復元し、慧日寺独自の儀礼空間が体感できるようになった。復元された金堂の内部は、慧日寺の歴史の一端を紹介する展示スペースとしても公開されており、同時に整備後の積極的な活用として、金堂院を利用したさまざまなイベントも企画開催されている。