徳一坐像

古代会津の仏教史上に大きくその名を刻んだのが、慧日寺を開創した法相宗(ほっそうしゅう)の僧「徳一」である。彼の出自や没年には諸説あるが、同時代にあった最澄や空海などとの関係から、概ね奈良時代の後半から平安時代初め頃の人物とみられている。

若い頃は南都の寺院に在ったが、都の喧騒を離れ自らの理想の地を追い求めて東国へと移り、この地を拠点に仏法の研さんに励んだという。やがて辺土会津に居ながらにしてその博識は最澄や空海にも届き、特に最澄とは三乗一乗(さんじょういちじょう)教学論争として名高い「三一権実(さんいつごんじつ)論争」を戦わせた。論争は著作の応酬という形で展開されたが、最澄は自著の中で徳一を「麁食者(そじきしゃ)、弱冠にして都を去り久しく一隅に居す」と表現しており、もともと都にいたが日本の一隅へと去ってから久しいことを述べている。同書の冒頭には「奥州會津縣溢和上(あがたいつわじょう)」とあることからも、これを著した817(弘仁8)年には徳一が会津に住んでいたことは確実である。南都法相教学を代表しての論戦が遥か会津の地から繰り広げられたことは、一千二百年前という時代を考えた場合、そのエネルギーたるやいかばかりであったことか。結果として最澄の法華一乗思想と真っ向に対峙したこの論争は決着を見ず、二人の没後も両教団で継承されていくが、応酬を通じて天台教学自体が大成されていくなど、古代仏教思想の深化に大きく寄与する結果となった。

一方空海は、弟子の康守(こうしゅ)を遣(つか)わして新来の真言密教経典を書写して布教する協力を依頼した書簡を徳一に寄せている。その冒頭には「私が聞いているところでは、徳一菩薩は厳重に戒律を守っていて、珠にたとえると氷の玉のようであり、その智慧(ちえ)の深く澄みきったさまは大海のごとくと承っています。おんみは静かな山中に修行の場を求めて都を離れ、錫杖(しゃくじょう)を振りながら東に行き、(東北の地に)始めて仏法の旗を立てて、人々の耳や目を開かせ、高らかに法の道を説き、あらゆるもののもっている仏のこころを奮い起こされました。」とあって、賛辞と共に都の喧騒を逃れ、仏法の専修を目指して東国へと至った経緯を記している。

一般的に知られる徳一の姿は、こうした学問的な側面のみであるが、後世人々から大師や菩薩と称された背景には、決してそうした一面だけではなかったはずである。史料こそ残ってはいないが、そこには民衆を仏法により救済するという仏教の伝道者としての姿も確かにあったに違いない。現在、徳一開創の伝承あるいは関係伝説をもつ寺院は、福島・茨城両県を中心として約90ヶ寺が知られている。陸奥から常陸へかけて、国域を越える信仰の展開は、諸官寺の教域をも大きく凌駕しており、民衆の徳一帰依がいかに深遠であったかを物語る。空海が書簡の冒頭で、徳一に対し中国に始めて仏教を伝えた摩謄(まとう)や、揚子江以南の地に始めに仏教をもたらした康僧会(こうそうえ)になぞらえ最大級の賛辞を贈っていることからも裏付けられるように、その姿はまさに東北仏教の開創者と呼ぶにふさわしいものであった。

徳一関連寺院の分布

現在恵日寺には、奈良正倉院のほか全国的にも数例しかない古式の密教法具である「白銅三鈷杵(はくどうさんこしょ)」(国指定重要文化財)が伝わっている。当時最先端の仏教文化の文物がこの地に請来された背景には、稀代の宗教家「徳一」の存在があったことはいうまでもない。