磐梯吾妻修験の展開
後に修験道の開祖とされる役小角(えんのおづぬ)は、7世紀に大和の葛城山(かつらぎさん)を中心に活動した宗教家であるが、半ば伝説的な人物でありその生涯には不明な部分が多い。しかしながら、傑出(けっしゅつ)した呪術者としての名声はすでに奈良時代にして広く知られるようになり、諸国の山岳も役小角を開山とするところが多い。県内でも磐梯山・吾妻山・飯豊山など、修験にかかわる山々はあまねくその伝承を伝えている。
修験道が最も力を入れたのが、山中で鍛錬を重ねる「峰入り」である。古来の山岳信仰は原始神道的なものを母体としており、そこでの修行は呪法を主とする練行で霊験を得ることにあった。 霊峰磐梯山や周辺に連なる山々は、古くからの信仰と相まって格好の行場となり、これらの霊山を拠点とした修験者の活動も早くから伝えられている。そのため、一説では磐梯修験の始まりは慧日寺の創建より古いともいわれている。
F-38慧日寺跡で触れた「絹本著色恵日寺絵図」(けんぽんちゃくしょくえにちじえず)には、中心伽藍の中に「羽黒」「白山」などの小祠(しょうし)が描かれているが、それらが勧進(かんじん)された背景には出羽や加賀など近遠を問わず、この地に多くの修験者の出入りがあったことを裏付ける。とりもなおさず、当時慧日寺が磐梯山を中心とする修験の拠点でもあったからにほかならない。
近世に入り地方に修験道が広まる中、幕府は修験道法度を定め、各地の修験者は真言宗系の当山派と天台宗系の本山派のいずれかに所属させられた。同時に遊行も禁じられたため、彼らは村々に定着し、加持祈祷(かじきとう)や呪法などに従事するようになる。猪苗代町には京都聖護院を本山とする本山派の正年(しょうねん)行事・成就院(じょうじゅいん)があり、磐梯吾妻修験の先達として大いに活躍した。磐梯町には慧日寺の傍らに建つ磐梯山不動院龍宝寺を司る大伴家があった。成就院の末寺で同じく聖護院に属し、吾妻山を奥之院とする回峰や、地元住民の信仰が篤かった出羽三山への先達として登拝を重ねた。各地域に残るハヤマ信仰は元来固有の信仰を持っていたが、出羽三山修験の一派であった羽山派の影響を受けて現在のような信仰形態に固定化されていったという。
ところで、磐梯山への入峰はここを拠点とした東西両道の回峰ルートが知られている(図1)。行基伝説も残る廐嶽山頂を経由する西道が正式なルートだったらしい。その先は磐梯山を経てさらに吾妻山へと延びている。吾妻山と関係があったのは、吾妻山の正年行事であった成就院との関係からであろう。
その後、明治5年の修験道廃止令により大伴家は神職へと転じたが、龍宝寺の参道前には現在も湯殿山の碑が建ち、先達として活躍した名残を伝えている。