磐椅(いわはし)神社
磐椅神社の中にある。応神天皇時代(西暦250年頃)に大山祇神埴山姫神の二柱を磐梯山(いわはしやま)の頂きに鎮座され、天平元年(729年)に現在地に還され応神天皇と神功皇后を併せて祀った。その後、全国の神名帳を作成した際、会津では三社が掲載されその内の一社が磐椅神社で延喜式内社として広く信仰を集めてきた。
応仁天皇の御代(西暦270年ころ)、磐梯明神として磐梯山頂に祀ったのが始まりと言われ、729(天平元)年に現在の場所に遷座されたと伝えられている。10世紀の始めに編さんされた「延喜式」(えんぎしき)の神名帳に耶麻郡一座として記載され、社格の高い神社であった。猪苗代城を築いた猪苗代氏をはじめ代々の領主に庇護されてきて、社殿も荘厳なものだったと伝えられている。
1609(慶長14)年に切支丹(きりしたん)であった岡越後が会津領主・蒲生秀行の猪苗代城代となると、社領は没収、社殿は焼かれ参拝が禁止された。その後、初代会津藩主・保科正之は荒れた神社を復興、自ら祀られる神社を磐椅神社の末社とし、近隣の信仰を集めている。毎年、開催されている磐梯祭りの「御神火(ごじんか)行列」の出発地点になっている。
伝説「磐梯山の魔魅(まみ) ~足長・手長~」
足長・手長の話は、全国的に広く分布しているものだが、会津地方各地には「磐梯山の足長・手長」として語り継がれている。猪苗代に伝わる足長・手長の伝説は、次のようなものである。
昔々、猪苗代盆地がまだヨシ谷地に覆われ、磐梯山は病悩山と呼ばれていたころである。磐梯山には足長・手長という魔ものが住んでいた。夫の足長は、磐梯山と高田にある明神ヶ嶽にまたがって、雲をあつめお日さまをさえぎっていた。妻の手長も磐梯山に腰をかけ、長い手で猪苗代湖の水をかきあげて振りまくので、毎日、風雨にさらされ、そのために作物が実らず、人々は大変困っていた。
そこに、旅の坊さんが通りかかり、退治することになり、魔物を呼び出した。「お前たちは、たいそう大きな身体をしているが、小さくなって、この手のひらにある鉄鉢の中には入れないだろう。」というと、自慢げにどんどん小さくなって鉄鉢の中に入ってしまった。
坊さんは、この時とばかり、鉄鉢を自らの法衣で縛り、磐梯山頂に伏せて、魔物が二度と出られないように大きな石を乗せて、呪文を唱えて密閉してしまった。坊さんは、「これからはこの山の明神さまとして祀るから、民のためになるように尽くしなさい。」と言い聞かせた。後に、麓に拝殿を造り、磐椅神社としたということである。その坊さんは全国を行脚していた弘法大師で、会津の人々が身も心も健康でいられるようにと、会津に五体の薬師像も安置した。
魔魅(まみ)・・・人を惑わすばけもの