十六橋と材木岩
十六橋は、猪苗代湖北西岸の日橋川入り口に藩政時代の二本松街道が架かる橋で、現在の国道49号線の橋より約500m下流にある。かつては安積疏水(あさかそすい)(※1)の取水のための水位調節をになっていた。昔、日橋川(にっぱしがわ)は戸ノ口川と呼ばれ、ここにかかる橋の橋梁が十六あったことが名前の由来である。
1868(慶応4)年8月、戊辰(ぼしん)戦争で母成(ぼなり)峠(郡山市と猪苗代町の境の峠)を破った西軍が、怒涛のように猪苗代になだれ込み、若松に軍を進めた。守る会津藩では、十六橋を破壊しここで止めようとしたが、頑丈であった橋はたやすく落とせなかったので、西軍はこの橋を渡り、一気に若松城下に進撃したという。
明治になり、安積疏水をつくる時に建設した十六のアーチを持つ石橋が作られ、その後、改築され現在に至っている。十六橋のそばには、安積疏水の監修に当たったファン・ドールンの碑も立っている。
藩政時代の十六橋は石橋で、長い角柱の自然石でつくられていた。日橋川は猪苗代湖水の自然流出の唯一の河川である。古来、会津の多くの人が日橋川を渡って、二本松などの奥州街道へ出なければならなかった。渡し舟では間に合わぬほどの往来であり、橋が必要とされていたが、木造橋では流されやすい。そこで先人たちは知恵と知識を活かし、猪苗代湖西岸に分布する材木岩(断面が四角~六角形で柱のように長い火山岩)を橋脚などに利用して1786(天明6)年に石橋をつくった。
柱状の材木石を井桁に重ねたり、数本の石を横に並べ、それを数段に重ねて、水を素通しにして中に留めないようにした。橋脚を何本もつくっていることがわかる。まるで十六の橋をつなぎ一つの長い橋にしたのでその名が付いたのであろう。新編会津風土記には、笹山村の材木岩が太さや長さがよく、壊れにくいので十六橋に使われたとある。
材木岩は、この付近では笹山村のほかに、中田村の材木山、埼川浜の沼上などにも分布する。これらの岩石はマグマが地表付近で冷却されてできた火山岩である。地下から上昇してきた熱い液体状マグマが、地表付近で急に冷え固まるとき、収縮してたくさんの規則的なヒビ(節理(せつり))が入り、板状、ブロック(箱)状などになる。そのうち柱状になったもの(柱状節理)を材木岩と呼んでいる。
新編会津風土記には、磐梯明神がある夜、猪苗代湖に大きな橋をつくるため、石の材木をつくろうとしたが朝がきてしまい、置き去りにして帰ったそれが材木岩であると書かれている。当時らしい説明で興味深いが、西側湖岸の柱状節理をつくる材木岩の岩は、角閃石(かくせんせき)や輝石を含む石英安山岩で、磐梯山の安山岩とは異なる石質であり、形成時期も数百万年前で磐梯山よりかなり古い。
※1 安積疏水・・・1822(明治15)年に完成した猪苗代湖から郡山市に水を引く事業。明治維新以降、最初の国家プロジェクトであった。