猪苗代湖の東岸に流れる長瀬川は、吾妻山(あづまやま)と安達太良山(あだたらやま)を源とする川である。磐梯山の北側にある桧原湖などの湖沼群などからの支流と合流しながら、磐梯山の東側を回り込むように流れている。さらに、標高555m付近で安達太良山からの酸川(すかわ)と合流して南に流れ猪苗代湖に注ぐ、主流路延長が約25kmの河川である。

有史以前の長瀬川は、磐梯山の度重なる噴火の影響などを受けて、沖積平野部において河道の変更が何度も繰り返された。「新編会津風土記(巻12,文明1469-1487)」によれば、当時の長瀬川は現在よりも西側を流れていた。

現在、長瀬川河口や天神浜は、猪苗代湖に付き出した三角州となっている。しかし、以前は現在よりも小さく違った形をしていた。その変化には、磐梯山の噴火が大きく関係している。長瀬川は、江戸時代まではあまり洪水被害が発生しなかった。ところが、1888(明治21)年の噴火の山体崩壊で、大量の土砂が岩なだれ(岩屑なだれ)となり、磐梯山の北側(裏磐梯エリア)に広く堆積した。この土砂が平常時の流水や豪雨時、融雪時の出水により下流に流出したため、長瀬川の中~下流域では流出土砂によって河床が上昇した。そのため噴火後、1890(明治23)年、1894(明治27)年、1897(明治30)年、1898(明治31)年、1902(明治43)年、1906(明治39)年、1910(明治43)年、1911(明治44)年、1913(大正2)年の9回の洪水被害を発生させた。

その後、1916(大正5)年以降、洪水対策と電源開発の目的で桧原湖・小野川湖・秋元湖の堤防工事が開始されると大きな洪水は発生しなくなった。なお、三湖の堰堤は1921(大正10)年に完成した。

磐梯山の噴火で長瀬川に流れ込んだ土砂が、その後の移動で河口周辺まで流されて堆積したために、地形は大きく変わり、現在の三角州をつくりあげた。噴火前と噴火後の数時期の地形図からその変遷を読み取ることができる。噴火以前の1878~1879年の汀線を噴火20年後の1908年のそれと比べると、三角州の成長により、河口が沖合に最大550mほど前進している。また、最新の2001年の地形図と比較すると、河口で分流していた長瀬川が土砂を供給し、北側に形成されていたラグーン(潟)を埋め、その後河口の三角州は後退する一方、河口東側及び北側の陸地面が沖側に拡大している。