小平潟天満宮

小平潟天満宮

小平潟天満宮は平安前期・中期に活躍した公卿菅原道真(くぎょうすがわらのみちざね)を祀っている神社で、学問の神さま、農業の神さまとして信仰を集めている。創建の由来に就いては、次のように伝えられている。

「947(天暦元)年、北野天満宮の創建のとき、京都の仏師が尊い方の命を受け、道真のご神像を造ったが、小さかったので、北野社に納めることが出来ず、そのまま家に祀っていた。すると摂津国須磨(せっつのくにすま)(今の神戸市須磨区)の人が都に来てこの神像を願いうけ、家の帳台に安置し朝夕に拝んでいた。そこへ、近江国(おうみのくに)(今の滋賀県)比良(ひら)神社の神主神良種(かんよしたね)がやってきて、杯を持ち〝須磨でのむこそ濁り酒なれ〟と、濁り酒を飲んでいたところ、〝この浦は波高ければうち越して〟と、美しい声が帳台の奥から聞こえ返答してきた。良種は不思議に思って帳台の奥を見ると、道真のご神像だけで誰もいない。今の歌は道真が詠んだご神詠と悟った良種は、ご神像を願い受けて、それを背負い諸国を巡り歩いた。良種が猪苗代湖畔にたどり着き、摂津国須磨の浦の風光にもまさる松並、波静かな湖面に心を奪われ、時の経つのも忘れて見とれていると、いつの間にか日暮れになってしまい、立ち上がろうとすると像が動かなくなった。良種は道真がここに鎮座することを望んでいると察し、村人とも相談、耶麻郡の大領である上毛野陸奥公(かみつけのむつこう)に願い出て、948(天暦2)年にこの地に勧請した。当時、小平潟村は小出方村といっていたが、摂津国平潟を偲んで「小平潟(こびらかた)」と改めたという。」

小平潟天満宮は代々の会津領藩主の庇護(ひご)をうけ、社殿の修復をしてきた。特に、神道に造詣の深かった初代会津藩主保科正之(ほしなまさゆき)は、天満宮に自ら参拝し、再建に尽力した。三代正容(まさかた)の代になると、正之の思いを受け、小平潟村内にあった社殿を現在の地に移し、桃山様式を取り入れた荘厳な社殿を造営、社殿を西向きにして、若松城の守護を願ったと伝えられている。社殿は現存し、猪苗代町重要文化財に指定されている。祭礼は7月25日で、前日の宵祭りから賑わっている。

小平潟集落の各家々ではかつては参拝者を宿泊させた。家々はそれぞれ屋号を持っていたので、現在では往時を偲び、各家々に屋号の看板を設置している。

猪苗代兼載の史跡群

猪苗代兼載は1452(享徳元)年に、猪苗代町の小平潟で生まれた。6歳の時に故郷を離れ、連歌師として修業を積み、わずか38歳で連歌師の最高の位である京都の北野歌会所奉行に就いた。

当時の日本では豪族間同士の勢力争いが絶えない時代が続いていた。会津もその例外ではなく、兼載の父はそうした豪族の一人であった猪苗代城主盛実(もりざね)であったと言われており、母は小平潟村主の石部丹後(いしべたんご)の娘・加和里(かわり)と伝えらている。兼載の誕生については、つぎのような言い伝えがある。

「母の加和里は小平潟の天満宮に、子どもが授かるようにとお参りした。百日目を迎えたある夜、どこからともなく現れた神様が一枝の梅の花を加和里に投げ与え、左のたもとに青梅が入ったら男の子、右のたもとに入ったなら女の子と告げた。そしてある夜のこと、加和里は左のたもとに実が入った夢をみて、男の子が生まれた。その子が兼載だったのである。」

兼載が菅原道真の申し子(もうしご)だと言われている所以でもある。加和里は、道真が詠んだ「東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花 主(あるじ)なしとて春な忘れそ」の和歌に由来している梅の精が天満宮であることから、生まれたわが子に「梅」と名付けた。後の兼載のことである。

梅は三歳のころ、母の背中に背負われて畑に行った。村人が「梅よ、どこさ行くんだ」と尋ねたら「冬青々として夏かれる草を刈りに行く」と答え、季感をわきまえた天才ぶりが伝えられている。小平潟天満宮周辺には、兼載ゆかりの史跡が点在している。

また、医学者・野口英世の父・佐代助は、小平潟生まれで、兼載とも血のつながりがあり、英世は兼載の血を受け継いでいるとも言われている。